江東の巻・第七回:孫伯符、北郷に懸念を抱くこと

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「いらっしゃい。お酒飲む?」
 俺たちを迎えた雪蓮の第一声がそれだった。
 魏にいる冥琳に代わって筆頭軍師の座にある穏がいるものとばかり思ったが、通された部屋には雪蓮が一人いるばかり。しかも酒瓶を片手にだ。
 部屋自体もそう広くなく、あと二、三人入ったらいっぱいになってしまいそう。
「ボクはお茶がいいわね」
「うちも遠慮しとくわ」
「そ。じゃあ、明命、悪いけど、お茶淹れてくれる? お湯はそこにかかってるから」
「はい!」
 元気よく答えてお茶を淹れ始める明命。
 俺たちはならんで卓についた。三人で雪蓮に相対する形だ。
「しかし、魏からの報ちゅうから、うちらに関係すると思っとったけど、明命はんが来るちゅうんは、どっちかちゅうと呉のことなんか?」
「それもあるわ。いくつもあるらしいから困るわよね。平和になったらのんびりできると思ったんだけどなー」
 酒を片づけて、明命の淹れてくれたお茶を一気に呷る雪蓮。
 熱くないのか?
「無理よ。平和になったからこそ、それまで戦時だからと抑えつけられていたものが吹き出してくることだってあるんだから。あと十年は安定のために動いてもらわないと」
「じゅうねん~? 勘弁してよー」
 ふるふると手を振る雪蓮に対して、詠は、くいっと眼鏡をなおしつつ、しっかりと相手の目を見て言う。
「この十年でその後二十年を築き上げ、その後の二十年で百年を築くのよ」
「うー、めんどいー」
「雪蓮だってわかってるはずでしょ。皆がわかっていることをあえて言うのが軍師というものよ」
 詠と雪蓮が討論なのかじゃれ合いなのかよくわからない会話をしている間に、明命の手になるお茶も配り終わり、俺たちは一息ついて居住まいを正した。
「では、報告いたします。細かいことは様々ありますが、大きなことは四つです。主に一刀様に関わります」
「え、俺?」
 予想もしていなかった言葉に驚く。
 まさか、稟や桔梗が……。
 いや、何かあれば明命を送るまでもなく急使が飛んでくるだろう。早さよりも、秘匿性と直接の答えを持って帰るために彼女が派遣されたはずだ。
「直接に被害のあることはありません。ご安心を」
 表情に出ていたのか、明命が生真面目な顔で念押ししてくれる。
 正直、その言葉はありがたかった。今のやりとりだけで、手がべっとりと汗で濡れてしまっているくらいなんだから。
 では、まずおめでたいことを、と前置きして、明命は俺を真っ直ぐに見て言った。
「荀彧殿、ご懐妊」
 ……は?
「ありゃー、桂花かー。こりゃ驚きや」
「軍師二人目? ちょっとあてすぎじゃない?」
 詠と真桜、二人のからかうような声も、耳に入っても脳が処理してくれない。
 いやいや、ちょっと待て。
 桂花が? あの桂花が?
 しばらくぼーっとしていたのだろう、明命が心配そうに言葉を足す。
「実を言うと、桂花殿ご本人はすでに気づいておられたようなのですが、ずっと隠しておられたようで。お腹が膨らみはじめて、これは隠せぬと……」
「まあ、桂花らしいんじゃない?」
「いずれにせよ、おめでとうございます、一刀様」
 明命の笑顔に、ようやく反応する。
「あー……うん」
 桂花が、俺の子を……俺の、子を!
 喜びが体を駆けめぐり、机の下で小さくガッツポーズをしようとして、真桜の肘にぶつけてしまう。
「いたっ」
「あ、ごめん!」
「……ええけど、たいちょも痛いはずやで?」
 肘をさすりながら、不思議そうに覗き込まれる。
「あ、え?」
 痛み?
 ええと……ないな。
「しばらくだめね、こいつ」
「しゃないやろ。子が出来たんやし。せやけど、もう三人目やしなあ」
 しかし、一抹の不安がある。桂花は男嫌いだし、ましてや、以前から近寄ると妊娠するなどと言って俺を罵倒していた。
 それが彼女なりのやり方であることはわかっているが、しかし、もしかしたら、俺の子などおぞましいと思ってしまうのではないか。
 いや、さすがにそこまでは桂花といっても……。
「とりあえず、子供のことで頭がいっぱいの一刀はほっておいて、次に行きましょ」
 ああ、そうだ。華琳がどうにかしてくれるだろう。
 もし、桂花が反発したとして――それがないのが一番だが――子を害するようなことを彼女の主たる華琳が許すわけがない。
 ましてや、もはやこうして俺にも連絡がくるほどなのだから。
 ああ、しかし、無事に生まれたとしても、俺に抱かせてもらえるだろうか?
 あの桂花のことだから、男が近づくなど許してくれないのではないかという不安が……。
「はい。ですが、いいのでしょうか。呉の秘事ですので……その……」
「うん。真桜は知ってるし、詠にはどうせ隠しておけないわ。詠、あなた一刀につくことにしたんでしょ?」
「どういう意味? ボクたちは呉に来たときから、北郷一刀の預かりになってるわよ」
「わかってるくせに」
「……ま、そうね。月も離れないでしょうし。こいつの下にいることになるわね」
「そういうこと。一刀が知っているのに、詠に隠す意味がないわ。いいわよ、明命」
「は、では」
「ちょい待ち。さすがにたいちょ聞いてなさすぎや」
 すぱあんっといい音と共に、後頭部に強烈な衝撃が走る。
「うわっ」
「たいちょ? 目さめた?」
「あ、ああ。悪い。えっと、呉の特許商人の関税減免の話だっけ?」
 思考の渦の中から引き戻されて、ついなんとなく口に出したけれど、うん、違ったみたいだな。
 全員があきれ返るようにこちらを見ているのはなんともいたたまれない。
 雪蓮が溜息をついて、面倒そうに明命に向けて手を振る。それを受けて、彼女は再び俺に向けてはっきりと言った。
「冥琳様がご懐妊なされました」
 さすがに連続で来るとは予想もしていなかった。あまりに予想外すぎて、逆に頭が芯まで冷える。
「明命、ちょ、ちょっといいかな」
 真桜たちに、またか、という目でみられているのを意識しつつ、恐る恐る確認してみることにする。
「はい?」
「桂花と冥琳が俺の子を身籠もったと、そういうことでいいんだよな?」
「はい」
 はきはきと応じる明命。
「ほ、他に俺の子が出来たって話は……」
「ご懐妊はこのお二人です。……はっ、申し訳ありません、私はまだ……」
「そ、そうか。うん、わかった」
 よし、そうか、わかった。
 桂花と冥琳が俺の子を身籠もった。
 桂花――魏の筆頭軍師、華琳の覇業を支え続けた、口の悪い喧嘩仲間。
 冥琳――呉の筆頭軍師にして、世に謳われるほどの美貌の持ち主。大陸を導く新しい仲間。
 三国の頭脳にして、とんでもない佳い女二人が、俺との子をその身に宿してくれた。
 その事実が、体の奥底まで染み渡った時沸き上がってきたのは、強烈なまでの歓喜と、それと裏腹の不安。
 俺という人間は、北郷一刀は、彼女たち――桂花、冥琳、桔梗、稟――四人の俺の子の母となってくれる女性たちの献身に値するのか?
 そんなことを突きつけられたような気がして、体中にぴりぴりと電流が走るような気がした。
「なによ、それが呉の秘事なの? どうせ相手はこいつでしょ? まあ、ちょっとうるさいのもいるだろうけど……。それにしても、軍師三人目ね」
 たしかに、孫権に知られれば、より強い嫌悪を招きかねない。それよりも、問題は……。
「冥琳には蓮華への王位継承の作業を任せているのよ」
 口を噤む明命に対し、あっけらかんと秘事を明かす雪蓮。
「ああ……。やっぱり」
 詠は、驚きもせずに頷く。知っているはずはないのだが、見抜いていたとしたら、賈駆の炯眼恐るべし。
 いや、俺の世界の歴史から導き出したのか?
「なに、知ってたの?」
「いいえ、知らないわよ。でも、いつかそうするだろうと思ってたもの。はっきり言うけど、武人として生真面目すぎるわ、あんたは」
 珍しく皮肉さの全くない苦笑いを浮かべる詠。あれは、間違いなく褒めているんだな。
「は? 蓮華じゃなくて、わたしぃ?」
「そ。王としてじゃなくて、武人として、よ」
 その言葉に、雪蓮はなにか納得したようだった。こつこつと指で卓を叩いて一人ごちる。
「引き際……か? まあ、ね」
「まあ、そのあたりはおいといて、冥琳はんも子供産むとなったら、動けんようになる時期が出てきてまう。それをなんとか助けてやらなあかんやろ。しかも秘密裏に」
「そうだな。呉の国譲りはいずれ明らかになるだろうが、いまは明らかにする時期じゃない。華琳はこれを知っていて呉に関わることはしないと約束しているけど、蜀やその他の勢力にまでそれを期待するわけにはいかないからな。なにより、呉の国内をまとめるにしても、まだ時間が足りていないはずだ」
「あら、頭まわりはじめたの」
 詠がそっけなく言う。この調子だと、俺の言葉に賛成ということだろう。
「呆けてばかりもいられないさ。生まれてくる子のためにも」
 肩をすくめて見せると、鼻で笑われたが。
「体を休めるのにはちょうどいいとは思うけどね、あの子ってば無理しすぎるし」
「冥琳様は予定通りにこなしてみせると……。しかし、ご自分でも子供のことを考えると無理はできないと考えておいでのようです」
「冥琳らしいわね」
 たしかに冥琳らしい。
 洛陽には人が多いことや貴重な薬種が揃うこともあって、頻繁に華侘が訪れているから、健康については彼に任せられる。ただし、過労となると当人がおさえてくれないとなかなか難しい。
「手が空いてるのなんていないわよねえ。桂花も妊娠じゃ……」
「美羽と七乃さんはいるけどな」
 呉では評判の悪い二人の名前を出してみる。
 魏は宦官放逐後も黄河の治水事業に力を入れているものの、大枠はできあがったので二人の手を離れているはずだ。
 郷士軍も実務は凪たちに移っているはずなので、雑事はともかく、基本的には二人の手は空いてるはずなのだ。
「えー。あんな愚図どもいたって……」
 雪蓮の言葉が不自然に途切れ、目を見開く。
「たいちょ、抑えて」
「だめよ」
 低いささやきと共に、机の下で両の手がぎゅっと握られた。
 一つは詠、一つは真桜。どちらもが必死に俺を引き止めようとでも言うように手を包んでいる。
 おいおい、どうしたっていうんだ? 真桜なんて震えてるぞ。
 雪蓮相手に激発するとでも思われたのか。たしかに、美羽たちを馬鹿にされるのは腹立たしいが、しかし、雪蓮はいまの美羽を知らないのだから、そこまで怒り心頭に発するわけもない。
 ……というのは俺の理性が下した結論なわけだが、どうも、よほどひどい顔をしていたらしい。あの雪蓮の笑みがひっこんでいる。
 感情以前に体が反応していたようだ。しかし、雪蓮の場合、笑みが消えると、親しみやすさが消えて美しさが強調されるからか、怖いくらいだ。
「雪蓮様、いまの袁術は冥琳様もお認めになるほどです。たしかに軍師と言えるほどの力はないかもしれませんが、祭さまもついておられますし、けして侮れるものでもないかと」
「……ふーん」
 明命の言葉に、ふてくされたように答える雪蓮。
「呉の国譲りを袁術と張勲にさせるってわけ?」
「いる、って言っただけさ」
 俺のことを探るような雪蓮の視線。海のように深い青の瞳が、淡く翳る。
 俺自身、美羽と七乃さんがどれほど実務的かということについては不安な部分もあるが、祭や冥琳の監督下なら、美羽の突飛な発想を生かしてくれるのではないかという期待もあった。
「たいしたタマね、一刀。袁術たちに、あなたの命は伝えてくれるんでしょうね?」
「雪蓮が冥琳に手紙を出して、俺が添え文を書けばいいだろう」
「そう。……明命はこの返事を持って戻るの?」
「はい、雪蓮さまにあらためて何か命じられない限りは、なんらかの意思決定がなされれば戻ってこいと言われています」
 そうか、明命はすぐ洛陽に戻るんだな。久しぶりに会ったから、食事くらいはいっしょにとれるかと思ったが。
 家族や呉の友人たちとの触れ合いもあることだし、難しいかもしれないな。
「そ。じゃあ、明日中にまとめるわ。今日、明日はゆっくりして、明後日出立なさい」
「ありがとうございます」
 その後、雪蓮は詠と真桜のほうを見やって意見を求める。
「うー、難しなあ。うちはことが終わるまでこっちにおるから、できる限りのことはするけど、洛陽でのことはちょっと」
「ねねを推薦したいところだけど、あの子、まだ頭でっかちすぎるのよね。人の機微を考えないといけない作業には不向きね」
「そっか。えっと、祭はこれに専従してくれてるんだっけ?」
 どうだったかな、と思い出してみる。やることは色々あって、しかも、俺や祭は特に決まった部署がないから、やろうと思えば際限がない。
「いや……。そうだな、祭にはこれに集中してくれるよう頼んでおくべきだろうな」
 また面倒な、と口では言うのだろう。その様子が脳裏に描き出されてつい微笑む。同じことを考えていたのか、似たような笑みを浮かべていた雪蓮と目があった。
「ま、これに関しては、今後もみんな助力を頼むわね。で、あとはなんだっけ」
 そして促す呉王の言葉に応じて放たれた明命の言は、またもや衝撃的なものであった。

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江東の巻・第七回:孫伯符、北郷に懸念を抱くこと」への2件のフィードバック

  1. 一刀「俺の女に手を出す奴は滅殺でしょ?JK。」
    原作の季衣の拠点の時にもあったけど、一刀サンは身内(主に女性)に危害が及ぶと、
    めっちゃキレますよね(笑)顔に出てますよ一刀サン(笑)

    そして、明命がいじらしくて素敵ですね。末永くモフればいいよw

    •  原作からして一刀さんは大事に思った人はとことんというところがありますが、この物語の一刀さんの場合、一度忘れてしまって思い出した上に、戻れるかどうかもわからないという経験をしていますので、余計に色々あるのだと思います。
       まあ、雪蓮もひくくらいっていうのは、やっぱりこれまで培ってきた胆力とかかなとは思いますがw

       明命は、ほんとどこまでもまっすぐ慕ってくれるであろう素晴らしい女性ですよね。

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