江東の巻・第五回:李曼成、海を知り、大望を宣すること

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「やっぱり水運は結構盛んなんだな」
 川面に群れる大小の船を見て、そんなことを呟いた。
 櫂船もあれば、帆を張っただけの船もある。大きなものは櫂船が多いようだ。
 それらの船が停泊し、櫂を高く揚げている様は、まるで木立のようにも見えた。商船は特に上背もあるので、動く島のようだ。
「たくさん、船がありますねー」
 快復した月も、久しぶりに甲板に上がって川面を眺め、改めて感心しているようだ。
 その隣の詠は何か考えごとに夢中。
 ここしばらく、彼女は熱心に何事か考えているようで、張りつめた顔をしていることが多い。悩み事ならば、相談に乗りたいとも思うが、果たしてなにに悩んでいるのか。
 さらに少し離れたところには、俺たちを見守るように恋と華雄が体を休めている。もちろん、休めているように見えるだけで、俺たちに何かあればすぐに駆けつけられる位置を保っているのだけれど。
「江水のほとりだからな。使わない方がおかしいだろう」
 俺たちといっしょに鋭い目つきで川面を行く船を眺めていた甘寧が、珍しく口を挟んでくる。
 彼女は元からそこまでおしゃべりな性質ではないのだろう。これまで積極的に会話に参加してくることはなかったのだ。
 ただ、寡黙ながらも命じられた案内役の任は充分に果たしてくれている。
 船員たちの管理から、真桜が行きたいと思っている川辺の街への案内等、色々気配りをしてくれているところをみると、言わずともしっかり見通しているタイプなのだとわかる。
「こないだ赤壁の前に見た時はやっぱり船の数が少なかったからさ」
 連環の計のための仕込みの船はいたけどな。俺の言葉に、甘寧はふんと鼻を鳴らす。
「それは、戦時だったからにすぎん。お前たちが攻めてきておいてよく言えるものだ」
「まあ……うん。それはね」
 たしかにそう言われてしまうとしかたない。けれど、彼女の言葉により強く反応したのは当の俺ではなく、先程まで己の思考に浸っていた詠だった。
「はんっ。袁紹の尻馬にのってボクたちを攻めた人たちに言われたくないわね」
「詠ちゃん……」
「あれはっ、しかし……」
 甘寧の言葉は途切れて続かない。詠は眼鏡をくいとなおすと、疲れたように息を吐いた。
「袁術の麾下にいたからしかたなく? まあ、そうよね。言っておくけど、別にボクは恨んでなんかいないわよ。たぶん、月も恨んでない。それぞれの理由があって、それぞれの思いがある。それを皆がわかってくれるはずはないもの。華琳やこいつが呉を攻め滅ぼした理由は、そりゃあ、あんたには納得できないでしょうけど、それをいまさら責めるのはお門違いじゃない?」
「そうですね、私はもう恨んでいません。乱世でしたから……」
 滔々と語る詠に対して、月は寂しそうな、けれど、どこか吹っ切れたような笑顔を見せる。
 その透明さが悲しくもあり、頼もしくもある。
「む……」
 甘寧は唸り、俺は何も言おうとしなかった。
 詠や月は、麗羽が主導した反董卓連合で攻め滅ぼされ、頼った蜀を俺たちに滅ぼされ、と乱世の悲哀を一番よく知っている人間だ。
 俺が口を出すべきではないだろう。
「それに、袁紹を下した華琳たちが三国の中で勢いを得たからこういう結果になったけど、呉が力を得ていたら、あんたたちだって大陸を呑み込もうとしたでしょうよ」
「それは、我が呉は……」
 そのあたりは、どうなのだろうなとも思う。
 呉は三国の中でも最も専守防衛気味な国だ。呉の領土さえ侵さなければ、あとはどうでもいいと思っているふしがある。
 しかし、噛みつかれる危険性を考えれば、他の国を排除してしまおうという方向へ行ってもおかしくはない。
 それだけの熱量は、たしかにある。
「その通りです」
 答えは俺たちの背後からやってきた。
「亞莎」
 振り返れば、モノクルをかけた少女が真剣な顔で俺たちを見据えていた。
 きっと、会話が漏れ聞こえていたのだろう。その後ろには真桜がいて、軽く手を振っている。
「我々にも理想があり、民をさらに富ませたいという欲望がありました。時機を得ることがあれば大陸統一に邁進したことは想像に難くありません」
 はっきりと言い切る。
 きりっとした目でそう言う様を見ていると、ああ、この娘も軍師なのだな、と感じる。きっと、辛さや憤懣は全て呑み込んでしまうのだろう。
「しかし、いま、天下はこのように治まっています。過去は過去として、いまはお互いに力を合わせるべきだと思うのです。思春殿にも思いはありましょうが、無闇と争うことは孫権様の意にも反すると思います」
 その言葉を聞いていた甘寧は、束の間過去を思い出すように視線をさまよわせていたが、すぐに意識を戻すとしぶしぶといった感じで頷いた。
「……それも、そうだな」
 俺たちの方へ向いて、軽く頭を下げる。
「すまなかったな。赤壁はどうしても色々と……な」
 赤壁、か。
 色々と渦巻くものを、たしかに捉える前に押し流す。いま、祭のあの『最期』を思い出すのは避けたかった。
「まあ、そのあたりはしゃないわな。で、たいちょたちはなにしとったん?」
 見れば、真桜の手にはいくつか竹簡がある。おそらく、亞莎と色々と相談していたのだろう。
 真桜も段々と交渉事を含めた仕事のコツをつかんできたようで、最近は俺があまり口を出さないほうがいいかなと考えつつある。
 それはそれで幾分寂しい気もするわけだが……。
「ん、いや。水運での交易の話とかをだな」
「まあ、河でも船多くなっとるもんな」
 黄河の話が出て、ふと思い出したことを甘寧に訊ねる。
「あ、そうだ、江賊の取り締まりとかはどうやっているんだ? 黄河でも河賊が増えてきてさ。本場の方式を教えてもらえたら……」
 なんだかいきなり空気が重くなり、言葉が出てこない。くいくいと袖をひっぱられるので振り返ってみれば、真桜が耳打ちしてくる。
「たいちょ、たいちょ」
「ん?」
「思春はんは江賊の出やで」
 ……あ。
 そうだった。すっかり忘れていたが、甘寧といえば有名な江賊の頭だったんだっけ。
「江賊は……そうだな、管理するのが一番だろう」
 意外にもその空気を一番気にしていないのは甘寧本人のようだった。
「管理?」
「そうだ、私のように取り込んでしまえばいい」
 あっさりと言う。周りを指して、あいつもあいつも私といっしょに呉に降ったんだ、と説明されると何も言えない。
「もしくは、賊が現れる要因を除けばよいのだ。貧することなければ、賊にも走らん。衣食足りてなお賊に落ちるなら、それは禽獣と同じ。殺すしかあるまい」
 たしかに彼女の言うことは正しい。賊になるしか道がない、という状況を作らないことが第一ではある。
 しかし、中にはただ楽をするためだけに富を掠め取ろうとするものがいるのが厄介なところだ。
「とはいえ、江賊が一つの勢力としてあるのは事実です。思春さんがおられる限り彼らは手を出さないでしょうが、その重石がなくなった時が……心配です」
 亞莎が感慨深げに呟く。彼女の心配も当然のことだろう。
「だから、そうなる前になんとかすればよいのだ。武を求めるなら軍に入れ、利を求めるなら商人となれるよう国を富ませるのが先だ」
「そうは言いますが、富が増えればそれを狙う者も増えます。それを討伐して回れば、民は怯え、世は乱れかねません。もちろん、対策は考えておりますが……」
「やれやれ、心配性だな、亞莎。以前は私と同じように果断に対処すべきと断じていたように思うがな?」
 甘寧は少々呆れ顔だ。江賊は彼女の古巣であるものの、彼女自身はそれと対して直接に処断すべき立場でもある。
 それに対して、亞莎は軍師という立場で国全体を考慮して動かねばならない。
 そんな二人の差が出ているようにも思える。
「それは……その。立場というものが……」
 赤くなって応える亞莎。やっぱりまだまだ照れや動揺を隠すのは百戦錬磨の軍師たちに比べれば苦手なのかもしれないな。
 俺たちの船の横を、櫂船がすべるように通りすぎていった。
 それを見て、俺はふとあることを思い出す。
「一つ、交易を促進するやり方を提案していいかな?」
 呉将の会話に口を挟むのもどうかなと思ったが、これ以上言いあっても、並行線を辿りそうなので一つ提案してみることにする。
「あ、はい。もちろんです」
「これは、俺の世界のヴェネツィアという港湾都市で行われていた方式なんだけどね。船の漕ぎ手に交易品を乗せる船内の空間を分け与えるんだ。そうすることで、漕ぎ手も余分な金が稼げて、人気の職になるだろうし、交易自体も促進される」
 興味深げに説明を聞いていた甘寧は、しかし、俺の言葉を鼻で笑いとばしてくれた。
「商船にしろ軍船にしろ、そんな場所はない。無理だな」
 そう言われるのは覚悟の上だ。
 実際、船に乗ると、その狭さを実感せざるを得ない。特に櫂船では漕ぎ手を収容する必要性があるために、何かを積載するための空間はとてつもなく貴重なものとなる。
 商船ならば船主がそれらを分け与えることは考えられないし、軍船なら余計無駄は切り詰められる。
「ヴェネツィアの例では、ベンチ……ええと、座っている場所の下を与えていたのかな。これなら可能だろ? 扱うのは、少量で高価な品が主になるけどね。そうだな、お茶とかになるのかな。銘酒とかもありか」
「ふうむ……。たしかにその程度なら……」
「あ、せや、椅子をぱかんと開くようにすればええんちゃう? 鍵のかかる箱の上にこしかける形で。なんやったら、うちが作ってもええで?」
 俺たちの話を聞いていて、ひらめいたらしい真桜が勢い込んで話し出す。
 こう、はねてな、と身振り手振りで説明しはじめた。
 月はそれを見てなんだか愉しそうだ。詠は水上のことは管轄外という感覚なのか、あまり絡んでこようとしない。
「……軍船といえども寄港はする……平時の士気向上にはいいかもしれません」
「しかし、軍人が金儲けを考えるなど。交易は大事だが、そこは線を引くべきではないか?」
「それも呉のためです。金が回らねば、富むことはありません。また、別の地方では高値をつけるようなものもあるとわかれば生産にも弾みがつきます。もちろん、金ばかりを求めるのは避けるべきですが、一刀様の提案は……」
 長い袖を振り立てて熱弁する亞莎の言葉の何かが気に食わなかったのだろう。甘寧の表情が硬く凍りつく。
「ふう、呉の軍師どのは皆、魏の言いなりか。情けない」
 その小さな呟きは、独り言を装いながら、明らかに皆に聞こえるような大きさで発せられていた。
「思春さん」
「私とて頭から反対しているのではない。ただ、慎重な検討を要することを、そのように嬉しげに語るのはどうかと言っている」
「う、嬉しげとは、ど、どういうことですか」
「まるで餌をもらった飼い犬のように、尻尾を振って喜んでいるではないか」
 なんとなく、甘寧の怒りの矛先がわかってきた。おそらくは、俺を『一刀様』と呼んだのがいけなかったのではないだろうか。明命もそうだが、さすがに他陣営のトップでもない俺を様づけで呼ぶのは少々やりすぎな感はある。
 助けを求めるように周囲を見回す。剣呑な空気を感じ取り、音も立てず近寄ってきた恋と華雄は月と詠、そして俺を護る位置へ移動中。月はおろおろとしており、詠といえば、あきれ返ったような顔で亞莎たちを見ている。一人、真桜だけが、表情を消して俺をじっと見つめ返してきた。
「興覇殿。そのように根拠もなく誹謗するようなことを続けられるのはお止めください。なぜあなたがこの行の案内役を命じられているのか、すでにお忘れですか?」
 顔の前で袖を合わせた亞莎は強い口調で甘寧をたしなめる。それに対して、甘寧は刀の柄に手をかけることで応えた。
「阿蒙ごときがこの甘寧に指図するか」
「それが軍師の務めなれば」
 二人の間に、闘気が行き交う。相変わらずおろおろとしている月とそれを抱きしめるようにしている詠をそっと背中に匿う。その上で前にならんだ恋と華雄に低く話しかける。
「華雄、恋、どう見る?」
「……五分」
「だが、亞莎の得物がわからん。暗器とも聞くが……。それを甘寧が承知しているかどうかで、大きく変わるぞ」
 いつの間にか、甘寧の手には抜かれた刀が握られている。一方の亞莎は手を解き、だらりと袖を垂らした体勢で対峙する。
 二人の距離は、二歩もない。もし亞莎の武器にリーチがなくとも、踏み込めば必ず届く距離だ。
「興覇殿、考え直されよ」
「くどいぞ、亞莎」
 ぎりぎりと引き絞られる弓のように、二人の闘気が殺気に変わっていくのがわかる。
「華雄、二人が決着をつける直前に引き離すこと……できるな」
「決着をつけさせてはいけないというわけか? まあ、我等二人ならなんとかなるだろう」
 だが、その場を引き裂くように、甲高い音が響いた。
「ええ加減にせんかい!」
 それは、巨大な刃が回転する音。
「呉の重鎮二人が揃ってアホやるなや! これ以上やるんやったら、あんたら全員道連れに、この船沈めたるで」
 螺旋を描く槍が二人の間に突き出され、次いで、甲板を向く。
とんでもない宣言だが、真桜の螺旋槍ならそれは可能だろう。赤壁でその効果は実証済みだ。あのドリルが刺さって穴が空かない船はない。
「ま、真桜殿」
「手を出すな、真桜」
「うっさい、ぼけ。あんたらが手を引くんが先やろが。醜態さらしとるんはあんたらやで!」
 睨み合う三人。亞莎と甘寧は真桜の乱入で気勢を殺がれたようだが、引きどころがないといった風情だ。真桜の方はあれで二人が引けばあっさり引くだろうけどな。
 そんな三人の間に、とことこと入り込む人影が一つ。
「れ、恋?」
「恋さん!?」
 恋は俺たちの叫びなど構うことなく、三人に近寄ると、懐から饅頭を取り出した。あれ、いつも持っているのか?
 三人ともにその行動に呆気にとられたのか、固まってしまっている。恋はそんな彼女たちに構わず、饅頭を二つに割り、それをさらに二つずつに割った。
「……三人とも、これ、食べる」
 四つに割った塊を、それぞれに差し出す。
「お腹、減ると、怒りっぽくなる」
 四分の一を実際に、もふもふと食べて見せる恋。
「お腹いっぱいになると、しあわせ」
 微かに笑みを見せる恋。皆に見せるためとはいってもわざとらしさの全くない、心の底からそう思っているに違いない笑みだった。
「だから……食べる」
 手を出して来ない三人の手に、無理矢理のように饅頭の塊を乗せて回る恋。それぞれに受け取った三人は顔を見合わせると、ぷっと吹き出した。
「言う通りやな。腹いっぱいになると幸せやもんなー」
「そうですね」
「ふん……ま、これはなかなか美味いがな」
 そう言って饅頭をぱくつく三人を俺たちも笑顔で見守るのだった。

 こんこん、と扉を叩く音がする。ノックの習慣はこちらにはないので、俺が以前教えた月たちだろう。亞莎に目礼して会話を一時中断し、外に向けて声をかける。
「どうぞー」
 案の定メイド姿の月と詠が入ってきた。月が茶器の乗った盆を持ち、詠が湯の入った瓶を持っている。
「いま、お茶をお淹れしますね」
「ああ、ありがとう」
 こぽこぽと手際よくお茶を淹れていく月。詠はこういう細かいことは苦手らしく、見ているだけだ。それでも、愛らしいメイド姿の二人が部屋にいるとそれだけで気分が華やぐ。
「はい、亞莎さん」
「ありがとうございます」
 俺と亞莎の前に茶を置き、退室しようとする彼女たちに声をかける。
「詠。いま、山越の話を聞いていたんだ。ちょっとつきあってくれないか?」
 詠は躊躇ったようだが、月がそれを見て微笑みを浮かべる。
「詠ちゃん、私は大丈夫だから……」
「そう? じゃあ、湯はここに置いてくわね」
「あ、そうだね。……じゃあ、失礼します」
 月が一人出て行くと、亞莎の横に座る詠。
「それで、なんの話?」
「ああ、以前、山越によって労働力を確保していたって話をしてたろう? その詳しいところを亞莎に聞いているんだ」
「ああ……。一時期は、軍の半分以上が山越出身だったって話まであったわよ」
 それはすごい比率だ。いくらなんでもそれでは、士気が保てない気がするのだが……。
 亞莎の方を見やると痛いところをつかれた、という風に苦笑を浮かべている。
「そうですね、各将軍の部曲を除けば、たしかに呉の軍の半数近くは山越からなっていたと言われても間違いではないかもしれません」
 部曲というのは、要は私兵だ。各将軍が家族ごと養っている兵たちで、それだけにその将への忠誠は高い。
 この制度は魏ではかなり早い時期に廃止された。単純な話で、魏の将軍たちというのは、ほとんどが豪族の出身ではなく、代々部曲を養っているような将軍というのが華琳と、春秋姉妹しかいなかったのだ。
 この三人の部曲というのは、要するに夏侯家と曹家の部曲であり、それを魏そのものの兵とするのは難しくない。
 後に霞のように張遼隊を引き連れて降ってきた例はあったが、いずれもすんなりと魏の兵として吸収されている。
 これは、張三姉妹を下して黄巾の残党までも吸収し、さらに彼女たちによる勧誘で兵を増やしたために、他国より厳正な教練システムを構築せざるをえなかったことの効能でもあるだろう。
 ちなみに、この部曲というものは血族が相続することもあれば、地位を引き継いだ者が、その武力もろとも引き継ぐこともある。つまり、ある役職にとっての親衛隊のような地位を担っている場合もあるのだ。
「もちろん、そのような山越の比率の多い部隊は即席のもので、決戦に用いることは出来ません。結局は、各将軍の部曲が主力とならざるを得ませんでした」
「それが呉の強さであり、弱さでもあったのかもね」
「そうですね。元々呉の兵の根幹は、文台様の時代よりあった部曲です。それを袁術に取り上げられていたために孫策様たちは動けなかったというのがあるわけでして……」
 手塩にかけて育て上げた最精鋭の部隊を継承することを許されなければ、雪蓮や祭がいかに優れた将でもどうしようもない。美羽による軛がいまでも呉で憎悪されていることが、その屈辱や苦悩がいかに強いものであったかを物語る。
「逆に言えば、それだけの精鋭を代々抱えていたということでもあるわけよね」
「しかし、部曲制では魏のように均一な兵の練度向上は望めません。欲を言えば、山越すらいっぱしの呉の兵となるような教練が理想ですから……」
 おやおや、二人の軍師の会話になりつつあるぞ。月の淹れてくれた美味しいお茶を飲みながら、言葉の応酬を眺める。
「それは山越そのものを呉に同化させるのが先じゃない? いかに領土と主張してもその内懐にこれだけの勢力がいるとなると……」
「はい、その通りです。しかし……」
「問題は支配そのものよね。山越対策というよりは、いかに喰わせ、いかに生かしていくかと……」
 二人の議論は、その後延々と続き、小一時間ほど経ったところで、俺が制止をかけた。
「ところで、亞莎。このあたりの地図を見せてくれるって話だったけど」
「あ、はい。しかし、とても正確なものとは言えませんが……」
「うん。おおまかな位置がわかれば、それでいいんだ」
 ごそごそと彼女が取り出した地図を詠と二人で覗き込む。たしかに正確とは言い難いが、江水の姿は把握できる。
「すでにもうほぼ河口に来ておりますが……」
 海に流れ込む長江の河口。亞莎が指しているのは、そこにほど近いあたりだ。
「やっぱりか」
「え?」
「俺の世界ではね、このあたりは上海って名前で、世界的にも有名な巨大経済都市になっているんだ」
 河口の右岸のあたりを大雑把に示す。そこに広がるのは、揚子江デルタ。長江が運んできた土砂が溜まって作り上げられた大平原だ。
「長江の河口で、海に通じている。しかも、土地は堆積地で、整地もそれほど必要ない地形が広がっている。水運と海運を一手に引き受けられる場所だ」
 俺の言葉に、亞莎の目が細くなる。
「ここが、ですか……」
「うん。もう一つ、俺の世界だと、江東、江南の地は、この河口地帯も含めて、大食糧庫になって、大陸全体を支えることになる。もちろん、この世界でも適用できるとは限らないけどね。でも、実は真桜がこの視察旅行に出ると聞いてから、この地域についてちょっと注目していたんだ」
「肥沃な土地なの?」
「長江が運んできた土が溜まっているからね。もちろん、人を連れて来なければ話にならないけど」
 亞莎は懐に手を入れて、別の書物を取り出し、急いでそれをめくる。
「あまり、このあたりの戸数は多くなく、調査はなされていないようです……。たしかに耕作可能な地は広がっているようですが、それ以上の認識は……。主要都市から遠いですから……」
 この大陸の都市は、どうしても河北から中原が主だ。土地は肥えていても、人の足が入っていなければ無視されるのも当たり前だろう。
「俺は、三国の内陸だけの交易はいずれ頭打ちになると思っている。今後見据えるべきは、南蛮や、そのさらに向こうとの交易だというのが持論だ。もちろん、内陸交易をおろそかにしろというんじゃないけれど、呉は内陸より、水運、海運が向いた地勢だろ」
 現実的には三国の中で、西域交易には手が出せない場所にあるのが呉という土地だ。海洋交易路を構築しないことには、遠方との交易で富を生み出すことは難しくなる。
「別にここを開発しろと勧めるわけじゃない。ただ、この地域は、さっきも言った通り、俺が知る限りは開発に力を入れてもまるで根拠はないわけじゃないから、出来れば考えてほしいかな。海運に今後力を入れるっていう前提での話だけど」
 押しつけがましくない程度に話を進める。また甘寧を怒らせては元も子もない。
「……調査してみる価値はありますね……」
 亞莎が何度も何度も頷いてはぶつぶつと小さく呟いている。
 おそらく、彼女の頭の中では様々な計算がなされ、利害と今後の展望が描き出されているに違いない。
「あのさ、あんたがたいがいな阿呆で、なんの見返りもなくとも呉の利になる情報を話してもまるで平気ってこと、真桜やボクはわかってるわよ。でも、ある程度は、自分にも利があるってところ見せておいたほうがいいんじゃない? 却って疑われかねないわよ?」
 詠がけなしているような褒めているようなよくわからないアドバイスをしてくる。
 しかし、その口調はともかく、内容はたしかなものだ。裏になにかあると思われたら厄介なのは間違いない。
「ああ、簡単だよ。南で海運が盛んになれば、それに対応するように北も豊かになるからさ」
 亞莎の地図をなぞる。しかし、上の方は黄河の河口あたりで途切れていて、俺の示したい場所が載っていない。
「この地図には載ってないけど、さらに北に行くと渤海があるよね?」
「ああ、あるわね。半島との間ね」
「いま、伯珪さんと麗羽たちは、遼東から高句麗にかけて勢力を保つ公孫氏を鎮撫に向かってる。それが、平和裡に済むか、征服することになるかはわからないけど、いずれ、その地域も魏の経済圏に入る。そして、ゆくゆくは渤海は北の海運拠点、この上海のあたりは南の拠点になると、そう考えているのさ」
 もちろん、そうなるのは数十年の単位の後だろうが。
「つまり、魏の沿岸交易の相手として、このあたりで海運が盛んになってほしい、というわけでしょうか」
「うん。有体に言えばね」
「しかし、それは呉のためにもなる、いえ、そもそもこの地が肥沃であることがわかれば、街は自然と発達する。それが、国を……」
 顔をうつむかせた亞莎はぶつぶつと呟き続ける。いつまでもそれが続くので、少々心配になってきた。
「亞莎?」
「あ、いえ、その、け、検討させていただきます。か、一刀様ありがとうございました」
 はっと顔を上げ、自分が思考の中に耽溺していたことに気づいた亞莎は真っ赤になりながら、ばたばたとそのまま出て行ってしまう。
 その様子を見ていた詠が皮肉げに呟いた。
「計画都市でも作らせるつもり?」
「さあね、そこまでは。でも、海運に力を入れてほしいと思っているのは嘘じゃないよ。発展は望むところさ」
「ふーん」
 しばらくの沈黙。次いで、彼女は決心がついたとでも言うように決然と立ち上がった。
「話があるわ」
「ん?」
 個人的な話、と前置きして、彼女はゆっくりと聞きとりやすい声で言った。
「ボクと別れて」
 え?
 いま、彼女はなんと言った?
 脳が認識を拒否しているうちに、詠が話を続ける。
「もちろん、立場は変わらないままだけど、男女の関係はもう無し」
「え、詠?」
「なに?」
 彼女の顔はいたってまじめだ。からかっているとか、ましてや俺を試しているなどというふしはまるでない。
 夢ではないか、あるいは夢であってくれないか、そう願っても、現実は変わってくれない。
「考え……直せないか?」
「無理」
 一言の下に切り捨てられる。
「普段はこれまで通り接してよね。変に勘繰られてもいやだし、そもそも別のことだし」
 ぐらぐらと床が揺れる気がする。船がどこか水流の激しいところにはまったのだろうか?
 いや、違う。揺さぶられているのは、俺の心だ。
「わかった?」
 そう尋ねる彼女の目の端で、きらりとなにかが光った気がした。
「……詠?」
「わかったかって言ってるの!」
 叫ぶ詠の目尻には、たしかに涙が盛り上がりつつある。肯んじようとしない俺に失望したのか、あるいは……いや、そんなことを考えている場合か。
「俺は……」
「ああ、もういい。ともかく、これからはボクのこと、自分の女だなんて思わないでね、じゃあね!」
 言うが早いか、部屋を飛び出ていく詠を、俺は思わず追いかけた。しかし、閉じられた扉に手をかけたところで、刺さるような声が扉越しに走った。
「追ってくるな! 追ってきたら、あんたのとこも出てく!」
 それでも、俺は把手に手をかけずにはいられなかった。おそらくは、詠が向こうからもたれかかっているのだろう。扉は普通に力を入れただけでは動こうともしない。
「ひとつ、だけ、言って、おく、わ」
 しゃくりあげるようなくぐもった声が、扉の隙間からしみ入るように聞こえてくる。
「あんたに抱かれたことは後悔してない。それだけ」
 彼女の気配が消え、それでもなお、俺は扉に手をかけたままの姿勢で、呆然と立ちすくむしかなかった。

 詠は優しい。

 だが、その優しさが、俺を苛む。

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江東の巻・第五回:李曼成、海を知り、大望を宣すること」への2件のフィードバック

  1. 北郷一刀、同じ女に2度フラれるの巻(笑)
    詠ちゃんに三下り半突きつけられた時の一刀に、
    ポルナレフAAとテンプレセリフが思い浮かびましたw
    「あ、ありのまm<以下略
    しかし、甘寧VS呂蒙は見てみたい気もする。
    客呼べるカードやでぇw

  2.  ふられるのも勉強です、ええw
     実際、行き違いで感情がもつれることなんてよくあるので、こういう経験もきっと役に立つはずです!
     なにしろ、文字通りハーレム維持していかないといけませんからねw

     呂蒙甘寧戦は、たぶん呉では見たがる人多いでしょうね。特に、亞莎が視力に合う眼鏡を手に入れてからだと、かなりの見物だと思いますw
     

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