江東の巻・第四回:北郷一刀、江水の水面に愛しい時を思うこと

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 風は様々な匂いを運んでくる。土の匂い、むっとするような草いきれ、人々の生活から出る煙や料理の匂い、そして、足元に流れる水そのもの匂い。
「それにしても広いよなあ」
 はるか遠く、けぶる水平線まで広がる真っ暗な川面を眺めて感嘆の言葉を吐き出す。川面には天に輝く星がきらめき、引きずり込まれたら、二度と戻って来られそうにない。
 長江あるいは江水。
 この大陸でも屈指の長さを誇る川だ。日本の河川に慣れた身としては、『川』という範疇に入るとはとても思えない。なにしろ、場所によっては対岸が見えないのだから。
 その江水に浮かぶ大型船の上、俺はぼんやりと夜風にあたっていた。
「どうしたの、こんな夜中に。一人きりで不用心じゃない?」
 不意にかかった声にぼやけた意識を引き戻してみれば、メイド姿の詠が桶を持って立っている。
「どうも眠れなくてね。安全に関しては呉のほうがそれこそ神経質になっているくらいだよ。詠こそどうしたんだい?」
 実際、いまも夜直の水兵たちがそれとなくこちらの様子を伺っている。
 もし、呉の水軍の船の中で大使に何かあろうものなら大変なことになるのだから、彼らも必死だ。ましてや、甘寧と孫権さんの罵倒の件もある。
「水をもらいに来たの。月が起きちゃって。あの子、昼間は暑さがつらいみたいだしね」
「連れてきて、悪いことしちゃったかなあ」
 月は一昨日から寝込んでいた。
 視察の旅に出て一週間、慣れない環境に疲れがたまったのか熱が出てしまったのだ。詠には他のことはいいから、とにかく月についていてくれるよう頼んであった。彼女ならば、頼まなくともそうしてくれるだろうけど。
「軽い疲れみたいだから、まだいいわ。月も乗り気だし」
 実は、月が倒れたと聞いて、この船旅が無理そうなら二人で建業に帰っているように詠に提案したのだが、月が反対し、詠もしぶしぶ様子をみることに同意した経緯がある。
 甘寧や亞莎に聞いても呉の風土病の類とは違うようだし、まずは船内で休んでもらうことにしたのだ。
「馬の上ならいくらでもいけるんだけどね。船の上は勝手が違うわ」
 さすがは涼州の民。騎馬の上なら旅もへっちゃらか。
 やっぱり慣れというのは大きいな。俺も船酔いとまではいかないが、このずっと続くふらふらした感覚にはまだ慣れない。
「桶、持つよ」
 詠の持っていた水桶を手に取る。一瞬ためらったようだが、素直に俺が取るのに任せる詠。
「ま、ちょうどいいわ、あんたも見舞ってやって」
 そう言って、彼女は俺を率いるようにして、船内への階段を降り始めた。そのかわいらしい背中を眺めていると、不意に俺はあの夜のことを思い出すのだった。
 あの夜――彼女と結ばれた夜のことを。

 結局、詠の熱意と自身の欲望に負けて、緊縛プレイをすることを了承してしまった。
 詠自身はその行為の意味についてわかっていない。おそらくは、ただ拘束することに主眼があると思っているのだろう。
 だが、こちらとしては多少倒錯的な気分を味わってしまうのはしかたないところだと思う。
「お互いの顔が見えるほうがいいよな?」
「うん、それは……うん」
 そうなると後ろ手に縛るわけにはいかない。それが目的ならともかく、はじめてで痕をつけるのも厭だし、縄で縛るのではなく、手枷をするのが一番だろうか。
 俺は脇机の引き出しをあさり、革の手枷を一組取り出す。面積が大きく、手首から肘までの半分ほどを覆えるものだ。
「わっ。なんでそんなのが……って、あたりまえか……」
 なんだか妙な想像をして暗い顔になってしまっている詠に訂正する。
「いや。実は真桜が商品化しているんだよ、これ」
「はぁ?」
「真桜は、華琳から色々この手の、その……艶めいた品の製作を依頼されることが多くてね。いっそのこと小遣い稼ぎしちゃおうってことで、俺の意見とかを取り入れて、いくつか商品化をね。……結構売れているらしいよ」
 そういうわけで、これはサンプル品であって、詠が想像したような、誰かに使ったものとかではない。さすがにそんな失礼なことできやしない。
「世の中どうなってるんだか」
 やれやれと頭をふる詠だが、そんな彼女がそれを使用するというのだからなんとも言えない。
「新品だから、ちょっと革がほぐれてないかもしれないけど、紐や縄よりは痕はつかないから、我慢してくれるか?」
「うん。元々ボクのせいだし。ほら、早く」
 手首を揃えて前に突き出す詠。その手首に枷をはめ、最後に両の手首同士が固定されるようにがっちりと鎖をかける。
「な、なんか、その……つけると……」
 ほんの少し怯えの混じる声。それはそうだ。腕が自由にならなくなって、不安を覚えないわけがない。
「乱暴なことはしないから、な?」
「あ、あたりまえよ。……それくらい……信じてるわよ……」
 ごにょごにょと言い、そっぽを向いて寝台に横になる詠。背中から抱きしめるようにしてその横に滑り込んだ。
「苦しくはない?」
「そりゃ、ちょっと圧迫はされるけど……。ん、大丈夫みたい」
 少し腕を動かして納得したように言う詠。
 腕同士がくっつけられているせいで、体の前に垂らしておくか、バンザイするかの直線運動しかできないから、これなら、先程のような悲劇――いや、喜劇か――は起きないだろう。
 もちろん、パニックに陥らせないようにするのが一番だけど。
 ぴったりとくっついていると、詠の体温が伝わってくる。それだけでなんだか幸せな気分になってきてしまった。
 詠の方はなんだか落ち着かないようで、もぞもぞと動いている。
「やっぱり、落ち着かないか?」
「ん……。なんて言えばいいのか……」
 変に大人しいのは、やはり不安だからだろうか? ともかく、ゆっくりとやるしかないかな。お腹の上で抱きしめる形になっていた手をゆったりと動かし始める。
「やっ、ボクはもう充分……」
「いや、中断したから火照りが醒めちゃってるだろ? それじゃお互いつまらないからさ」
「……そういうもの、なの?」
 実際、濡れていないと、挿入が辛いだろうからな。
 詠を傷つけるようなことになったら大変だ。それに、冷静すぎると痛みをまともに受け止めてしまいそうだし。
「うん、お互いが昂ってそれで楽しめるのが一番だよ。ただ、はじめての時は女性の方は痛みでなかなか大変のようだけどね。でも、興奮してなかったら、余計辛いよ」
「い、痛いってのは本で読んだわ。……んっ、あっ……」
 俺が手を動かして、彼女の体を愛撫するのには納得したようだが、少し起き上がって詠の横顔を見れば、懸命に何か考えようとするかのような表情をしている。
「どうしたの?」
「なんか、変なの」
 少しずつ興奮を掘り起こされてはいるが、何かが気になってしかたないという声で彼女は言う。
「えっとね、こうやって拘束されているのに。……妙に……安心するっていうか。……ごめん、変よね?」
 詠の言うことはわからないでもない。拘束しての行為は俺もする方、される方どちらも経験があるが、それぞれに人間の感情を掘り起こすものだ。
 拘束するのは支配欲とそこから生じる満足感を、拘束されるのは諦観とそれに伴う安心感を。
 あくまで合意の上でのお遊びに限った話だが、拘束されるというのは不安はあるが、そこを越えれば生じるのは『何をされても抵抗できない』という諦めと、その裏腹の『相手に全てを委ねられる』という安心感だ。
 実際、何をしても相手の好きなようにされるのならば、それを受け入れてしまうのが一番たやすい。まして、相手は愛する人間であり、望まぬ苦痛ではなく快楽をもたらしてくれるのならば。
 自分のすることすら自分で決定しないでいい、という安心。つまりは、思考と意思決定を放棄する『奴隷の快楽』。
 普段、けして意思決定を他人に委ねるようなことをしない詠のような人間にとって、あくまで閨の上でだけそのようなことをするのは、とろける蜜のように蠱惑的なものだろう。
 とはいえ、いまそれを懇切丁寧に説明しても逆に受け入れがたいに違いない。
「拘束ってのは、俺がずっと抱きしめていると思えばいいんだよ。そうしたら、安心するのも当然だろ?」
 自分でも少し気障かな、と思うことを耳元で囁く。
「う、うぬぼれるなっ。ま、まあ、そういう解釈もあるわけね」
 真っ赤になるかわいらしい頬に口づける。そのまま顔中に唇をあてていくと、なんだか物欲しげに動く詠の唇。
「んん?」
「な、なによ……ふぅっ……」
「口づけがほしい?」
 じっと正面から眼を覗き込み、尋ねる。
「ば、なに言ってるのよ。莫迦じゃないの。自惚れも大概に……」
「そっか、ごめん。詠も俺と同じ気持ちでいてくれたらうれしいと思っただけなんだ。ごめんな」
 詠の言葉に重ねるように言って封じ、そのまま、口づけの場所を下にずらしていく。あ、と小さく声を漏らすのをたしかに聞いたが、聞こえなかったかのように、彼女の肩口の膚を堪能する。
「ほしい……」
 かすかな声が頭の上で響く。しかし、俺は舌の動きを止めず、彼女の鎖骨のあたりに唾液を塗り込めるのをやめない。
「ほしいわよっ。ばかっ」
 このあたりだろうな。これ以上いじめるのはかわいそうだ。
 体を上に戻し、むしゃぶりつくようにして、唇を重ねる。
 驚いたことに、あちらから舌を差し入れられた。まださっきの事故に責任を感じているのだろうか。それとも焦らしたおかげかな?
 拙いけれど、一生懸命に俺の舌に絡みつく詠の舌。熱く、熱く、燃え盛るように熱い。二人の間を吐息と唾液が行き交い、混じり合う。
「……ふっ……ん……はふ……」
 半眼に閉じられた詠の眼を見つめると、俺の顔が見える。きっと、詠も俺の瞳に映りこむ自身の顔を見ていることだろう。そして、それは愉悦に蕩けている。
 先程までの興奮が蘇ってきたのか、詠の膚も燃えるように熱い。腕を押さえつけられて行き場がないのか、腿が俺の脚をこするようにしているのを、詠自身気づいているだろうか?
 長い長い口づけの中で、二人の視線は一度もお互いから外れない。
 それどころか、特に何をしているわけでもなく、お互いの口腔を愛撫しているだけというのに、無上の快楽を感じていた。いや、意識するまでもなく、俺の手は彼女を求めて動いている。
 気が強くいつでもむすっとしているようなこの少女に、いつの間にこんなにも恋い焦がれていたのかと自分でも驚いた。
 もしかしたら、彼女も同じような気持ちだったのかもしれない。唇を合わせるのに慣れていないせいで、息が苦しそうにしているのを見て体を離そうとしても、けして離れないように追いかけてくる。
 しかたなく、口の端を開けて、そこから息をするように促さねばならなかった。あるいは彼女も、唇を離してしまえば、いまのこの感覚が失われるのではないかと、そんな根拠のない不安を持ってしまったのかもしれない。
 しかし、俺は確信していた。詠への自らの気持ちを。
 手をすべらせ、彼女の秘所を探ってみれば、既にそこは潤いを見せ、熱い彼女の液が指に絡みつくほどだった。詠が感じてくれていることが、とてつもなく嬉しい。
 そして、そのことが、余計に欲望を刺激する。
「え、い……」
 まだ口を離そうとしない詠に、無理矢理のように話しかける。
「ん……。な、に……?」
「詠が……ほしい」
 すっと離れた詠の顔がほんの少し緊張に彩られ、こくりと頷く。俺のものをあてるとさらに緊張が強まった気がしたが、ここは一気にいかなければ辛いだけだ。
 ゆっくりと腰を進め、俺は、詠の中へと割り入っていくのだった。

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