江東の巻・第二回:李曼成、己の道を見つめ始めること

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「起きろ、客人だぞ」
 強い声が、頭を揺さぶる。
「んー、華雄はんかー」
 部屋の主が答えている。俺はどうにも意識が浮上しなかった。なんだか枕の感触がとても心地よくあったかくて、いつまでも埋まっていたくなる。
「入るぞ、真桜」
「あいよ。寝室やで」
 声が近づいてくる。聞き覚えのある声に安心感を覚え、そのまま眠りの園へ引き返そうとした。
「やはりここだったか。ほら、起きろ、主殿」
「さすがやな、華雄はん。たいちょのことお見通しか」
 二つの柔らかな声が会話するのを、ふわふわした気分で聞いていた。体が揺さぶられているような気がするが、意識がはっきりしない。
「ふん。いやでも慣れるさ。しかし、昨日はよほどがんばったのか? まるでしゃっきりしないな」
「まー、だいぶ飲んでたしなー」
「ほら。幸せそうな顔をしているところ悪いが、いい加減起きろ」
 肩口に灼熱の痛みが走った。
「いだだだだだ!!」
 身動きも取れず叫ぶしかない。ようやく目を開けると、俺はなんだか肌色のものに埋まっているのだった。
「起きたか。客人だ。副使殿」
 わざわざ仰々しい職名で呼び、肩を指だけでひっぱる華雄の声に、さっと正気に戻る。
「ああ、起きる。いま起きる」
「たいちょが起きてくれへんとうちも動かれへんからなー」
 顔をあげてみると、俺は真桜の胸に顔を埋めていたようだった。慌てて彼女の体の上から退く。
「うちのおっぱい枕、寝心地よかった?」
 にやにやと訊ねられても……困る。
 なにしろ華雄が寝台の横に立ち、憤然と睨み付けている状況だからな。
 いや、とても、気持ちよかったですけど。
 はい、脳内の麗羽はわたくしのほうが気持ちいいに決まってますわ、とか対抗しないの。
「朝の睦み合いを邪魔するつもりはなかったが、甘寧がこの朝っぱらから訪ねてきてな。二人に起きてもらわねば困る。真桜。恋が湯を持ってくるので、体を清めたらまた呼んでくれ」
「了解や」
「ほら、副使殿。お前の部屋にも湯が用意してある。湯浴みしてしゃっきりしてくれ」
 そう言って寝台からひっぱりだされる。腕を抱えられるようにして引きずられながら、二人に向けて頭を下げた。
「えと、二人ともすまん」
 彼女たちはその言葉に顔を見合わせると、揃ってぷっと吹き出したのだった。

 とにかく自分と恋で甘寧の相手をしておくから、と言われて、俺は自室で湯浴みをしていた。
 昨日の謁見の間でのことがあるから、甘寧が訪れてくるのはわからないでもない。だが、この時間に、というのはちょっと厳しい。
 侍女たちが朝餉の支度をはじめるくらいの時間だから非常識に早いというほどでもないが、酒宴――とその後がんばった――翌日ということを考えれば……。
 もしかしたら、そういう判断能力が落ちた時間を狙っているのかもしれない。
 そんなことを考えていたせいか、近づく人の気配をまるで感じとれなかった。
「入るわよー。一応、正装を……。きゃっ」
 声に驚いて顔をあげてみれば、包みを持って部屋に入ってきた詠が慌てて眼を覆っていた。
「あ、すまん」
 とにもかくにも股間を隠す。詠は何も言わずにぱたぱたと次の間に走って行ってしまった。
「あー」
 しかたなく体を拭いていると、ぼすんと包みが投げ込まれる。
「服が入ってるから、着てからこっち来なさいよ!」
「了解」
 待たせるのは悪いので、手早く体から水気を取り、服を着込んでいく。
 いい加減学生服を着るのは勘弁してほしいところだが、『天の御遣いの光り輝くぽりえすてる』といえばこれがお決まりとなっているのでしかたない。
 普段はズボンはともかく、上着はこちらであつらえたものを着ていたりするのだが、正装となるとこれになってしまう。
 これだって、こちらで仕立てたもので、ポリエステルじゃなくて、絹を加工したものになるのだけど。
「悪いな。まだ寝ぼけてるのかな」
 詠にそう声をかけるが、部屋に入ってきた俺にも気づかず、顔をうつむかせているので、心配になって近づいてしまう。
「……あれが、男性器……あんな大きな……。いえ、ありえないわ……あいつだけよ、きっと。……でも、そうなると……。そんな、でも……あれが、はいるの……?」
 なんだかぶつぶつ呟いていて、考え事に夢中のように見える。
「おーい、詠?」
「はっ」
 耳に口を近づけて呼びかけると、ようやくのように顔をあげた。
「な、なによ。終わったんなら言いなさいよ。びっくりするでしょ!」
 いや、言ったのだけど……。ここで反論すると水掛け論になってしまいそうなので口に出すのはやめておく。詠とじゃれるのは愉しいが、時と場合というものがあるからな。
「え、ええと、着替えは終わったのね。ああ、もう髪がぐちゃぐちゃじゃない。ほら、ちょっとかがんで!」
 言われる通りかがみこむと、濡れた布と櫛を使って髪の毛を整えてくれる。櫛といっしょに詠の指が髪の間をかすめるのが、なんだかくすぐったくも心地いい。
「はい、これでよし、と」
 だから、そう言って詠の指が離れて行くのは少し寂しかった。その寂しさが顔に出ていたのだろうか、じっと顔を見つめられる。
「あんた、なにかあった?」
「ん?」
 物欲しげだとからかわれるのかと思ったら、あまりにまじめな声で尋ねられて驚いてしまう。
「死んだ後、安らかでいられなくてもいいって覚悟をしている人間の顔だわ」
 手を腰にあて、俺に正対してそう断言される。
「あの時の月そっくり。いったいなにを企んでるの?」
「何も企んではいないよ。ただ、背負っているものの価値を思い出しただけさ」
 そう、真桜に思い出させてもらった。
 この世界への絆とは、ただ、愛しい人達がいることだけではないのだ。自分がなすべきことをしっかりとなし遂げられる男に、俺はならねばならない。
「ただ……そうだね。地獄に堕ちることは覚悟しているよ」
 そうだ、きっと俺はたくさんの罪を背負っている。
 しかし、それを認めてでも、人は進まなければならない。わからぬままにも戦乱を過ごし、戦乱を終わらせた者たちのそれが宿業というものだろう。華琳といっしょに地獄の大王たちを平らげていくのも愉しみだしな。
「地獄?」
 不思議そうな顔で問いただされる。そういえば、地獄って概念自体が仏教由来なんだっけ?
 少なくとも六道とかはそうだよな。
「えっと、仏教はまだ伝来していないんだっけ?」
「仏とやらの教えはそれなりに届いてるわよ。ボクは興味ないけど」
「そうか。まあ、でも、色々と覚悟することは必要なんだと思うよ」
 今度そのあたりも色々聞いておこう。地方によってかなりの文化や経済の格差があることを、洛陽にいる間はつい忘れがちになる。あそこはなんでも集まってくる場所だからな。
 そんなことを考えていると、ふーんと何事か頷きながら俺の顔を覗き込んでいた詠が不意に言った。
「ああ、そうそう。あんたのその顔ね、許子将あたりならこう言うでしょうね。……王の顔をしてるってね」

 詠に過大とも言える評価をされて妙な気持ちになりつつも、甘寧の待つ部屋へと向かう。
メイド姿の詠に導かれるままに俺がその部屋に近づいて行くと、向こうから月を連れた真桜がやってくるのが見えた。
 扉の前で合流し、月と詠は一仕事終えたという風に立ち去ろうとする。
「あ、待った」
「はい?」
「え、ボクたちも同席させる気?」
「いや、そうじゃなくて……。真桜、ここ控えの間あったよな」
 言いながら、ひらひらと指で曖昧な方向を指す。真桜はちらとそちらを見て思案げに唸った。
「ああ、せやな。どうせ後で聞いてもらうことになるやろし、同席はせんでもそっちにいてもらおか」
「んー、わかった」
「はい。では……」
 二人は壁に近づくと、ぽんと叩く。すると、壁の一部がひっこみ、ぽっかりと口をあける。甘寧が通された部屋に付属した隠し部屋だ。
 普通の邸なら護衛の兵が詰めていたりする場所だが、大使館にそんなことは想定されていないので使うこともないと思っていたのだが、話を聞いてもらうにはちょうどいい。二人を表舞台に出すのはまだ早いが、事情には通じておいて欲しいからな。
「じゃ、行くか」
 二人が壁の中に消えたのを見届けて、声をかける。
「あいよ~」
 真桜はいたって気楽そうだ。彼女が深刻になったら、それはそれでかなり不安ではあるが。
 と言っても特に何か構えることがあるとは思っていない。甘寧の意図が何にしろ、謁見の間での行為に比べたらインパクトは格段に落ちるからな。
 部屋の中に入ると、そこは重い沈黙に満ちていた。
 ……歓待しているんじゃなかったのか、華雄。恋と華雄、それに甘寧が加わった三人で話に花が咲いているとは思わなかったけれども。
 俺たちの姿を認め、椅子から立ち上がる三人。その中で、華雄と恋は後ろに下がり、俺と真桜が彼女たちの座っていた椅子の前に立つ。
「どうぞ、お座りを」
 甘寧に声をかけ、自分たちも腰を下ろす。すっとしなやかな動作で甘寧が椅子に座ると、華雄と恋、それぞれが得物を携え、俺たち二人の後ろに立つのがわかる。
 殺気や闘気はまるで発していないが、この二人がいるというだけで、普通の人間にとっては尋常ではないプレッシャーだろう。さすがに甘寧はそれを気にしている様子はなかったが……。
「おはようございます、思春はん。今日はなんの御用ですやろか?」
「孫権様から伝言を預かって来た」
 ずばりと本題に入る。甘寧はそもそも武断の人と聞いていたから、言葉を弄することはないだろうと思っていたが、まるでそのままだった。
「孫権様は昨晩から閉門が申し渡されている。おそらく私にも今日、その命が下されるだろう。そこで、早い時間に来させてもらった」
 早朝の訪問の理由を延べないといけないと思ったのだろう、思い出したように言う彼女に先を促すように手を振る。
「北郷一刀を罵倒したことに関しては謝罪する、とのことだ」
「ふむ……?」
 こうもあっさりと謝罪するか。孫権という人は、腹芸がうまい人なのだろうか。そうは見えなかったのだけど。
「その上で、あの時の行いは、孫仲謀の意が六分であると心得られよ、と」
 一拍おいて、甘寧は言葉を続ける。
「私ごときに孫権様のお心が断じられるものではないが、あれは、自分の意志だけではなく、政治的行為でもあったということだろう」
「……つまりは、呉の中には、大使が体の良い人質だと考えとるやつらが相当数おるっちゅうわけかいな」
「呉だけではなく、蜀も、な」
 彼女の言葉に顔を見合わせる俺たち。珍しく真桜が苦笑いを浮かべる。
「こりゃ、誤解を解くんは大変そうやで」
 たしかに大使館制度はいまだ魏と各国の間でしか行われていない。蜀と呉の間では施行されていないのだ。この状況だけを見れば、宗主国が人質を要求していると解釈する者が出てくるのは避けられないところだろう。
 考え込む俺たちを、甘寧はじっと見ていたが、ふるふると頭を振ると、体を俺の方へと向けた。
「一つ、言っておく」
 明らかに俺向けの言葉に顔をあげると、仏頂面の中に、とてつもない意志の強さを持った瞳とぶつかる。
「此度のこと、貴殿が憎いわけではない。ただ、義を通したまで」
 真っ直ぐにそう言うのが、なんとも彼女に似合っている気がした。
「ただし……再び蓮華様が命を下せば、私は刀をぬくだろう」
 がちゃり、と背後で金属の音が鳴る。体中の毛がそれだけで逆立つ気がした。
「我らを前にその言葉、覚悟の上か?」
「華雄、恋」
 鋭い闘気を上げている二人に釘を刺す。俺のことを護ろうと動いてくれるのはありがたいが、天下無双の二人だけに、威嚇の言葉だけで殴られているような衝撃を味わうことになる。
「俺が……いや、俺たちがそうさせなければいいってことだよな」
「恨みは、ない。無闇に狙われることもないと思ってもらおう」
「いまんとこはそのあたりが落としどころやろな」
 ある意味、この言葉は安全を約するものでもある。
 闇討ちにあうようなことはないと側近である甘寧が言葉にした以上、孫権は反対派をまとめきって、暴走させたりはしないという宣言となる。
「では、たしかに伝えた。これにて」
 そう言って立ち上がる甘寧にあわせて、俺と真桜も立ち上がる。そこへ、後ろから声がかかった。
「どうだ、甘寧。一つ仕合ってみぬか?」
 華雄の声に慌てて振り返るが、思いなおして口をつぐむ。
 昨日も中途半端に終わったことだし、不完全燃焼を解消したいというなら、一度やらせてみるのも手ではある。もちろん、怪我をさせるようなことは……。
「命をとるどころか、治らぬ怪我もさせんぞ。この主殿が許してはくれぬからな」
 っと、華雄に先回りされた。
「昨日味わえなかったものを味わっておくのも一興だろう」
 もちろん、一対一でな、と付け加える華雄。恋も興味はあるのか、甘寧の方を見ている。見つめられている甘寧は少し考えていたようだが、ついに首を横に振った。
「いや、止めておこう。我が刃はあくまで呉と蓮華様のもの」
「ふむ。引き止めて悪かったな」
 そうして、甘寧の言に、華雄はあっさりと引き下がってくれたのだった。

 正使である真桜が甘寧を送り出し、俺たちは彼女が戻ってくるまで部屋で待っていた。詠と月も控室から出てきてもらっている。この後は皆で朝食を摂ることになっていた。
「恋、残念だったな」
 華雄がぽんと恋の肩を叩いて、慰めの言葉をかける。
「恋さんが、甘寧さんと戦いたかったのですか?」
「……最近、鍛練でも、華雄ばかり」
 月の言葉に、少ししょんぼりと恋が応じる。お腹もすいてそうだ。
 しかし、実際のところ、いかに鍛練であろうと、恋につきあえるのは広い天下のうちでも華雄くらいだろう。逆に華雄につきあえるのも恋だけだろうけど。
 俺や真桜では鍛練してもらうのはこちらってことになってしまう。それはそれでやってもらっているのだけどな。
「……んー、でも、華雄ってばとんでもなく強くなってるんでしょ。切磋琢磨するにはいいんじゃないの? ボクには武人の高みはよくわからないけど」
「……ん……」
 詠の言葉に少し困ったような顔になった恋が華雄のほうを見る。華雄はしかたないな、という風に肩をすくめる。
「こやつと私では、強さにたどり着くやり方が異なるのだ」
 集中する余り表情を無くして、懸命に言葉を選ぶ華雄。
「そうだな……。私は理想形とでも言うべきものがある。腕の動き、脚の踏み込み、間合い、拍子、打ち込みの角度、そういうもの全てに究めるべきものがある。そこを目指して、体や動きを近づけていくのが私の鍛練だ。だから、一人でやろうと相手が誰であろうと大した違いはない。
 一方、恋は本能やひらめき、経験を糧にして、それを体にしみこませていく。誰かの戦いを見るだけでも、こやつはそれを呑み込むだろう。私ももちろん鍛練の折りには変化はつけるが、しかしな……」
 ほう、と感嘆の溜息が三つ重なる。どうやら月と詠、それに俺が揃って華雄の言葉に息をついたらしい。一つのものを究めるということは、人の心を動かさずにいられないものだ。
「……どうしても、じゃない」
「そうだな。おや、真桜が帰って来るな。飯を喰いに行くか」
 そう言った時、真桜の姿はどこにも見えなかったが、すぐに彼女が扉を開いた。それを見て、俺たち三人は再び息をつくしかないのだった。

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