江東の巻・第一回:北郷、建業に至り、孫仲謀これを歓迎せざること

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 『江東の虎』
 そう呼ばれた武将がいた。
 後漢の乱れた世の中を糺さんと起った英傑はしかし、その志を遂げることなく、友と娘たちにその理想を引き継いで天に召された。
 いま俺たちは、その彼女がかつて起ち、その遺児孫策が築き上げた国――呉へと向かっていた。
 虎と呼ばれた母に対して、孫策は江東の小覇王と呼ばれた。古の項羽に比肩されるほどの勇猛。だが、ついに彼女は真の覇王たることはできなかった。
 その孫策はいま……華雄に絡んでいた。
「ねーぇー。やりましょうよー」
「うるさい。もはや文台のことなど忘れた。お前と闘う理由などなにもない」
「なーにー? また挑発したらいいのー?」
「ふん、臆病でもなんでも言うがいいぞ。もはや揺るぎはせん」
 再会した華雄の武勇を見抜いて以来、雪蓮は彼女との手合わせを希望していた。
 だが、いくらなんでも、この旅の途中で二人に怪我をされるわけにはいかない。
 そのため俺は勝負には応じないよう華雄に強く言い含めている。実際のところ、彼女自身もあまり興味はなさそうだ。
 これまで華琳を見てきた経験でわかることがある。
 幾万の人々を背負う王者の剣と武将の剣とでは、重さの質が異なる。
 この二人で、果たして勝負として成立し得るかどうか、はなはだ疑問だった。雪蓮自身は一人の武人としても飛び抜けて強いとはいえ……。
「えー、じゃー、恋でもいいからー」
「……恋、やらない。雪蓮、強い。でも、華雄や恋ほどじゃない」
 恋もにべなく断る。雪蓮でも恋や華雄といい勝負にはなると思うが、勝敗は見えているというのが実際のところだろう。
 しかし、よくよく考えると、恋や華雄ってとんでもないよな。
「かーずーとー、華雄も恋も遊んでくれなーい」
 ふられた雪蓮が馬車に馬を寄せ、窓から文句を言って来る。
「せめて、国につくまで待ってくれよ」
 窓から首を出して言い返した。このあたりはのんびりしているし、周りに恋と華雄がいるので、用心もそれなりだ。
「呉についたら遊んでくれるー?」
「それは華雄と恋次第だけど、少なくともこの道中は絶対だめ」
「けーちー」
 ぶつぶつ言いながらも、馬車から離れていく呉の主を見送る。しかし、どこの王様も無茶を言うもんだ。
「雪蓮も相変わらずね」
「でも、色々と構ってくださいますし……」
 同乗者の詠と月が、そんなことを言い交わす。そう言えば、この二人は俺たちが攻め落とす前の蜀にいたから、以前から雪蓮たちと知り合いなんだよな。
「あの勘の鋭さはとんでもないけどね。成都陥落前にボクたちの正体に気づいてたし」
 書簡に目を落としつつ、詠が続けた。普通の馬車の中では窓を開けても暗くなってしまうが、この真桜特製の馬車ではそんなことにはならない。
 鏡を巧みに利用して天井全体が照らされるようになっているのだ。
 貴賓専用の馬車なので、内部で仕事ができるように配慮したのだろう。
 ただし、その設計者の真桜は狭苦しいとか言って、外で馬を駆っているのだが。
「蜀では、呉の人たちには内緒だったのか?」
「まあね。隠し球のつもりだったのか、純粋にボクらを護ってたのか。実際は両方でしょうけれど。世の中悪意だけ善意だけって単純なものでもないし」
「個人の考えと、将や王としての立場ってものがあるしな」
「そうですね……」
 月が複雑そうな顔で言う。立場や地位に苦しめられた彼女をこれ以上苦しめないよう、詠たちは俺の預かりとなった。それを思うと、これ以上彼女たちを悩ませることは出来ない。
 なによりも、この線の細い少女をなんとしてでも護ってやらねばならないと身が引き締まる。
「ふーん、天の歴史だと、ボクが華琳を罠にかけて討ち取りかけたりするんだ」
 俺が書いてやった『歴史』を読み終えたのか、首をまわしつつ目を上げる詠。ちなみに、董卓に関することは出来るだけ省いた。さすがにへそにろうそくとか書いたら月を溺愛している詠に殺されかねない。
「……こっちではしないでくれよ」
 詠の手から書簡を回収しつつ、釘を刺す。これは後で燃やしておこう。
「いまの華琳にはしないわ」
「いまの?」
 眼鏡の奥から覗き込むようにして俺を見つめてくる。
「時が経つにつれて愚かになっていく、元は英邁な君主というのは枚挙に暇がないくらいいるものなの。華琳に限ってそんなことはないと信じてるけど。……ただ」
 かしょん。そんな音を立てて、窓が閉められる。
 それをしっかりと確認した後で、鬼謀の少女は小さい声で、しかし、たしかに宣言する。
「ボクはね、いまの天下が、曹孟徳の治世がおかしくなれば、すぐに起つ覚悟を持っているの」
 その宣言が本気だと、俺は感じた。だから、俺自身も本気で言葉をつむいだ。
「華琳はそんなことにはならないし、させないよ」
 ふっと月の顔になんとも言えない笑みが浮かぶ。詠がその様子を見てか、少々複雑な表情になっていた。
「でも、詠の覚悟を否定もしない」
 彼女の言はけして間違っていないと思う。たしかに期待されていた君主が権力に溺れ、愚かなだけではなく、民をもないがしろにするようにまでなることはままあることだ。
 それを警戒する人物がいるのは当然とも言える。
 華琳に対してそう思われるのは愉快とは言い難いが……。けれど、華琳自身がそうなれば自分を討てと言うことだろう。
「俺は華琳の側で、華琳がそんなことにならないよう支える。詠も月もそれに力を貸してくれないかな」
 頭を下げながら言う。俺が華琳に対してどれほどの影響力を持っているかはわからない。けれど、彼女の覇道を共に歩んだ者として、出来るだけのことはしていきたいと思っていた。
「はい。華琳さんのお力になることが、きっと、この大陸のためにもなるでしょうから」
「……そうね。いまはそれが一番でしょうね」
 詠は思慮深げに眼鏡をくいと上げる。メイド服でもかっこよく見せてしまうところが、この娘のすごいところだなあ。ふんぞりかえっちゃうとかわいさが勝ってしまうんだけど。
「ところで、天の国の歴史なんてボクに知らせてよかったの? たしか、華琳にも話してないんじゃなかったっけ」
「あいつは習俗はともかく、この時代の歴史に関しては聞きたがらないからな。ただ、さっきの話の繰り返しになっちゃうんだけど、詠には華琳を支える役を担ってほしいと思っている。風や稟、桂花とは違う形でね。詠は魏の外側の視点を提供できる人間だ。それが俺の世界の歴史というまた別のものを取り込んだら、さらにすごいものを生み出せる気がしたんだ」
 ふんと鼻をならす詠。賈駆という人間は己の才能そのものを否定することはないが、それをどう使いこなすのかを常に他人に突きつけているようなところがある。
 その答えの一つが、彼女にとってどういう意味を持ってくれるのか、期待と不安がいっぱいだった。
「ずいぶんな信頼ね」
 詠や月がくれた信頼に比べればちっぽけなものだ。董卓が身を隠すための避難所として俺が選ばれること自体信じられない出来事だというのに。
「実際のところ、もうこの歴史はこの世界には影響しないとは思っている。だけど、だからって誰にも彼にも言える話じゃない。そうだな。誰かに聞いてほしかったのかもしれないな。詠なら理解できる上に、下手に話したりは絶対しない」
 言うと、ぎんと強い視線で睨みつけられる。
「……あんた、ほんっと狡いわ」
「詠ちゃん」
「違うわ月。褒めてるの。……確かに多少恨み言まじりだけどね」
 はぁと小さく溜息をついて、詠は月に解説する。
「あのね。月。この世界とよく似ている、けれど違う世界の歴史を知るってことは、この世界にありえた別の筋道を知るってことなの。そこから現在の情勢を類推し、応用できることはごまんとあるわ。
 けれど、それを知ることには犠牲も必要となる。それは、『知っている』という事実が常にあることよ。ある流れがあったことをボクはもう知っている。それをこの世界で生かす術はこれまで培った軍師の才が次々生み出してくれる。
 何ひとつ交換条件を出すことなく、こいつはボクにほどけない鎖をかけたの」
「でも……」
「うん、ボクが望んでしたこと。まあ、別の世界の歴史なんて餌をちらつかされて我慢できる軍師なんていないけどね。そこがわかってるはずだから、狡いって言ったのよ。ほんと、大した男よ、こいつ」
 褒められている、と解釈していいんだよな、これは。桂花や風で慣れているからいいものの、軍師という人種はどうも表現形式が特殊だよな。
「……鎖か。華琳と同じ様なことを言うんだな」
「そう? 華琳の場合はまた別の意味もあるでしょうけどね」
「あいつはそれを(しゅ)と言っていたよ。俺にも華琳にもつながっている呪いだとね」
 それを聞いて、詠は愉しそうに笑った。実に愉しそうに。
「呪か。面白いわね」
 そして、彼女は俺を真っ直ぐに見つめ、こう言った。
「天の御遣いというのは、実に正鵠を射ていたのかもしれないわね」

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江東の巻・第一回:北郷、建業に至り、孫仲謀これを歓迎せざること」への2件のフィードバック

  1. 雪蓮「NDK?NDK?嫌がらせしようとして空振ったしまってw」
    蓮華「(--〆)#<ビキビキ」
    って感じですね(笑)
    マッハデレに定評のあるチョロイン蓮華サマもこちらでは遅咲きでしたからね~。
    第一印象って大事w

    •  蓮華さんは基本的に謀略には向いてないでしょうねw
       裏目に出やすい性格だと思います。
       まあ、呉をじわじわ蝕んでいるっていうのはあながち間違ってもいない印象だとは思いますがw

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