北郷朝五十皇家列伝・厳家の項[厳顔]

 厳顔に始まる厳家といえば、黄家、魏家と共に航海皇家として知られている。その中でも、厳家船団は、アフリカ最南端の岬をはじめて越えたことで有名であろう。
 かつて太祖太帝の時代に、すでに蒸気駆動の外輪船が存在したという伝説すらあるように、帝国の船舶建造技術、航海技術は太祖太帝の治世においてすでにかなりの水準に達していた。
 この技術的な発展の背景について詳しくは李家の項において触れているのでそちらを参照していただきたい。
 ……(中略)……厳家、黄家、魏家の航海に関しては、それだけで研究書が何冊も上梓されるほどであるからここで全て述べることは難しいが、その中でもモン・トンブ事件に関しては触れざるを得ないだろう。
 アフリカを回り込み、ついに欧州にたどり着いた厳黄船団は、モロッコに残った魏家の援助を受け、さらに北へ北へと進んだ。ビスケー湾において巨大な嵐に遭遇した船団はなんとかラ・マンシュ海峡側に回り込んだものの身動きがとれず、救援を期待してサン・マロの港へ寄港の許可を求める使者を送った。
 しかし、サン・マロ側ではこれを拒絶し、使者には一杯の水すら与えられなかった。また、寄港しようとすれば直ちに焼き討ちにかけると宣告してきたという。
 いかに異国の民とはいえ、あまりの扱いに激怒した船団であったが、もはや疲弊しつくした彼らにはなすすべがなかった。結局、船団はぼろぼろの状態で航海を続け、黄家船団はグレートブリテン島に、厳家船団はアイルランド島に流れ着くことになる。
 ……(中略)……このようにしてアイルランド島を支配するにいたった厳家は、しかし、かつてのサン・マロの事件を忘れてはいなかった。
 サン・マロ湾に浮かぶ小島モン・トンプに上陸した厳軍は、海上とこの小島から、サン・マロの港に対して猛然と攻撃をしかけた。古文書によれば、三日三晩、火矢が絶えることはなかった、という。
 そして、四日目、和睦の使者がくると、厳軍総大将は使者に対してあふれんばかりの料理と酒を振る舞った。和平ムードにすっかりいい気分になった使者が喜びいさんで戻り、渡された書状を開いた時、人々は絶句した。
「水をいただけなかった代わりに、我等は火を馳走しよう」
 再び開始された火矢の雨は、街と港を破壊しつくすまで止むことがなかった。
 後にモン・トンプにはこの事件を悼む人々により、有名なモン・サン=ミシェルの修道院が建てられ……(後略)

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