番外編その一:泥中之蓮

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 まだまだ猫と北郷の魅力を語り尽くせない様子の明命をなんとか押しとどめ、礼を言って辞した後、白蓮は今度は蜀の副使・桔梗の私室の前に立っていた。
 出てきた女官に案内されて、部屋に通される。
 その女官の出て行く後ろ姿を見ながら、彼女は首をひねっていた。
「あれは、蜀の女官ではないな?」
「子を産んだことのある女官のほうが、なにかと気を遣うてくれるからな。祭どのに頼んで変えてもろうた」
 膨れたお腹を抱くようにしながら、ゆったりと大きな背もたれのついた椅子に座っているのは桔梗。白蓮が洛陽を発つ頃にはまだ目立たなかった腹も、だいぶ目立つようになっている。
「ところで、白蓮殿。成都に残った白馬義従の件」
「ああ」
「星が連れてくることになっている。後任の大使は、紫苑らしいの」
 ほっと息をつく白蓮。
 蜀に残してきた部下たちは懸案事項の最たるものだった。蜀が接収するなどということはないと信じてはいたものの、命令系統からすればありえないことでもない。それがはっきりと、自分の下に帰ってくるものだとわかれば安堵の息も出ようものだ。
「そうか、ありがとう」
 その言葉に桔梗も安心したのか、ゆっくりと立ち上がり、酒瓶と杯を持ってくる。
「いいのか、おい」
「わしは舐める程度。昼間とはいえ、酒でもなければやってられん」
 たしかに、言う通りかもしれないと白蓮は首肯する。
 追放する人間とされる人間が、その事実を知らされた翌日に話しあおうというのだ。少しは口をなめらかにするものがあったほうがいいだろう。
「まあ、でも、私でよかったかもしれないな」
 勧められるままに杯を重ねた後で、彼女は呟くように言った。
「ん?」
「桃香は、昔なじみの私だからこそ切れたんだと思うんだよ。そうでなかったら、一悶着あって、蜀が辛い立場になったかもしれないだろ」
 ふぅと大きく息をつき、なにごとかを呑み込むように、桔梗も杯を呷る。こちらは、これがまだ一杯目。しかもずいぶんと薄めたものであった。
「……そう、やもしれんなあ」
 しばらくは沈黙の中。
 だが、二人ともあえてそれを破ろうとはしなかった。
 酔いがまわったのか、頬が少し赤くなりかけたところで、白蓮はここに来た理由を話す。
「おお、あちらに行くか」
「いや、まだ決めたわけじゃないから……。でも、もし行くかどうか決めるにしても、主の人となりを知ろうと思ってさ。いま、あいつは呉だろう? だから、知ってる人たちに話を聞いてまわってる」
「そうかそうか。わしでわかることならいくらでも。といって、わしがあの方のことで知っているのは、この子の父親としての顔が主な気もするが」
 そう言って、桔梗は幸せそうに腹をなでる。その幸福な光景を壊すのは忍びなかった。だが、自分だけのことではないと思いなおして白蓮は話を進める。
「その、二つ聞きたいんだ。個人としての北郷と、蜀から見た時のあいつを」
 桔梗はその言葉を聞いて少し考え込んでいたが、杯を置くと何事かを思い出すように顔を上に向けながら話し始めた。
「ふうむ。では、はっきり言おう。あれは女たらしの天才よの」
「……は?」
「考えてもみい、魏の将軍ども全てをとろかし、その上、わしや祭どのはじめ多くの女をたらしこみ、しかもその多くが喧嘩もせずにひとつところにおる。天与の才と言わずになんと言う」
「それは……そうだろうけど……」
 同意をしながらも、白蓮は渋い顔だ。彼女にしてみれば、女たらしであることを聞かされても、正直、参考にはならない。そういう感覚だったろう。
「呆れておるか? が、それこそがあの方の神髄。人を惹きつけることこそが」
 それでも白蓮の顔は晴れない。桔梗は苦笑を浮かべた。
「そうさな。純粋な能力で言えば、蜀の軍師殿たちにはいま一歩及ばぬ、というところか」
「それほど……か?」
「実際に指揮下にて共に戦ったこともあるではないか」
 今度は白蓮がばつが悪そうにうつむく。
「しかし、あの時は血迷っていたからな……」
「単純な知識で言えば、こちらの世界のそれはないが、天の知識があるため有利。なにしろ、こちらの知識などこれからでも入れられるからのう。決断力は、この間の戦を見てもわかる通り、果断。人を使う術は……ふふ、あれだけの将が側にいることで証明されよう」
 白蓮はふむふむ、と頷いて続きを促す。
「及ばぬところがあるとすれば、甘さか」
 そう言う桔梗の口元には笑みが刻まれていた。
「あの方は考え方からしてわしらとは異なる。烏桓一部族を買い上げて己の兵にするまではよいとしても、それを他国の武将に任せてしまうなど、わしらには考えられん。その違いが甘さと映る場合が多い。これが問題」
 再び酒杯をとると、彼女はからからと笑った。
「それがあの方の魅力でもあるわけで、難しいところよ」
「ずいぶん評価しているんだな」
「わしが子を成そうという男。もしわしの眼鏡違いとしても、それくらいの器量を今後身につけてもらわねば困るわ」
 彼女は平然と言い切る。そのなんとも言えぬ自信のようなものに、これまでの桔梗とはまた違うものを見た気がして、白蓮は圧倒されてしまう。
 これが母の強さというものか……?
 彼女はそう思うしかなかった。
「では、蜀から見た北郷一刀の姿を言えば」
 ちろりと舌を出し、酒を舐めとりながら、彼女は真剣な顔で続ける。
「これは、もう間違いのう一級の危険人物」
「危険人物? あいつがか?」
 白蓮の指摘に、桔梗はまあまあと手で制して、言葉を続ける。
「我ら蜀は益州の大半と、荊州の半分を領有しておる。益州の入り口、漢中は魏と領有を主張しあい、荊州では呉とその領地の支配権を争うておる。また、西は羌に押さえられ、南は南蛮を仲間に加えた。白蓮殿がこの程度知っておるのは承知のことだが、聞いてくれ」
「うん」
「さて、こうして眺めた時、我ら蜀には、進むべき場所がもはやない。領土なぞいらんが、交易まで出来んとなると、これはちと困る」
「まあな。畑を作る場所も少ない。ものを売るしかないからな」
 白蓮も蜀の国づくりにたずさわってきた武将だ。その立場と今後の展望については重々承知している。
「呉とは、領土で揉めておるというても、長江を利用して交易が可能。それほどの問題はない。が、一方で、魏との玄関である漢中は、危うい」
「魏も支配しているとは言い切れないけどな。あそこは五斗米道だろう」
 白蓮の言う通り、漢中盆地には五斗米道と呼ばれる宗教集団が居すわっていた。魏にも蜀にも税を納めたり、貢納をしたりして、どちらからも庇護を得ている。また、漢の内地に移った羌や蛮――どこから興ったかもよくわからない異民族――を支配下に入れ、侮れない勢力となっていた。
 その一方、魏、蜀という二国がこの状況を容認しているのは、五斗米道と漢中がよい緩衝地帯となってくれているからでもあった。これがあるおかげで直接衝突を避けることが出来る上に、お互いの関係が微妙な時でも変わらず交易を続けてこられた経緯がある。
「それがの、その五斗米道が転ぶという噂がまことしやかに語られておる。こういう時、謀略でなければ、真実であるというのが通り相場なのは知っての通り」
「あいつらが? そう簡単にいくか? あれらは並の胆力じゃないぞ」
 白蓮の疑問に、桔梗はやれやれというように手を振った。
「涼州がな、安定してしもうた。そろそろ自分たちも旗色を明らかにせんといかんと悟ったのであろうな」
「涼州が……。あと五年はかかるものと思っていたが」
「白蓮殿は知らぬかもしれんな。あの方は、いまや董卓と賈駆をもその配下としておられる」
 その言葉に、白蓮は納得したように頷いた。
「恋とねねだけがあちらに走るのは不思議と思っていたが、そうか、月と詠も……」
 そうすると、と白蓮は口の中だけで呟く。
「いかに西涼を束ねる翠がいるとはいえ、蒲公英が鎮西府に入り、月が北郷に従うとなれば……たしかに涼州は動かんな」
「うむ。蒲公英の鎮西府入りも、あの方がきっかけであったとも聞く。伏竜鳳雛は、あの方にはめられたと思っておるようだな。これは勘違いであろうが」
「ふうむ……」
「また、漢中の帰順に関しても、あの方の部下が推し進めている、という噂もある。これはわしも探りきれておらんが……。五斗米道の信者どもの間にもそのような空気が漂いだしておるのはたしかなこと」
 それを聞き、白蓮は渋面をつくる。
「民にか……。それはいよいよまずいな。涼州が押さえられ、漢中が握られれば、北方交易は安定はするだろうが、益は大幅に切り下げられる。こちらの言い値では買ってくれなくなるからな」
 桔梗も重々しく頷く。安定は歓迎するが、蜀の商人の入り込む場所がなくなってしまったでは意味がない。
「あとは、大使制度か。これは面白いものではあるが、せっかく取り込んだ南蛮を蜀からひきはがすためにも使われておる。白蓮殿、なんと、魏は南蛮にも大使を派遣しましたぞ」
「へ……。成都にいる秋蘭に飽き足らず……か。それは、厳しいな」
「さらに、あの方は、銅銭を利用しない取引の手法を考えつかれたという話もある。これについてはようわからんが、銅の需要が減れば蜀には大打撃。さてさて、これで北郷一刀を危険視する理由がおわかりか?」
 言いながら、桔梗の顔はなぜだか笑みに彩られている。それを見て、白蓮はしかたないというように溜め息をつく。
「しかし……偶然とは言わないが、流れというものじゃないか? なにも北郷が意図しているわけではないだろう」
「わしらはそう思うな。しかし、蜀で動きを見ておる朱里たちに、その感覚を期待するのは無理というもの」
「そっか……。じゃあ、私が北郷についたら、桃香を敵にまわすと思われるのかな」
「桃香様たちはそのようなことは思うまい。ただ、朱里と雛里は気を揉むな。なにしろ、冀州の袁紹、幽州の公孫賛、涼州の董卓、楊州の袁術に黄蓋、そうそうたる面々を部下に抱えることになる。そして、その後ろに控えるのは、魏の覇王にして漢の丞相ときておる。恐れおののくなというほうが無理であろうよ」
「そうそうたるって、みんな一世代前の諸侯じゃないか」
 自重気味に、白蓮は呟く。幽州を支配した公孫賛は、彼女にとってはもう昔の話だ。
 だが、桔梗はじっとその姿を見つめると、ひそめた声で、一音節ずつ区切りながら問うた。
「ほんに、そう思われるか?」
「……わからない」
 しばらくの沈黙の後、吐き出された答えを、桔梗は満足げに受け取った。
「まあ、白蓮殿があの方の下にいかれるとなったら、わしらが期待するのは、蜀との仲をとりもってもらうことかの。わしももちろん、そのように努めるが、な」
 さ、もう一杯、と彼女は酒を注ぎ、二人は奇妙に温かな沈黙の中、杯を重ねるのだった。

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