番外編その一:泥中之蓮

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 風呂にゆっくりとつかって戦の汚れを落とし、一晩考えた末、白蓮は意を決して呉の大使の執務室へ向かっていた。
「呉の大使の方はおられるかな」
 取り次ぎに出た文官にそう尋ねると、奥の部屋に通される。そこでは長い黒髪の活発そうな少女が一人書類と向き合っていた。
「あ、白蓮殿。いらっしゃいです」
「あれ、冥琳はいないのか。そういえば、謁見の間にもいなかったが」
「はい、冥琳様はすでに建業へ向かわれました!」
 その少女――副使である周泰こと明命に話を聞いてみると、周瑜と周泰という二人は呉に帰され、入れ代わりに孫権、甘寧という二人が赴任予定なのだという。
 筆頭軍師である周瑜――冥琳は先に国に帰り、明命は引き継ぎに一人とどまっているらしい。
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、明命に聞くかな」
「はい? なんでしょう?」
 椅子を用意され、そこに座る白蓮。同時に人払いがされて、二人だけの空間ができあがる。
 その上で白蓮は、少し言いにくそうに口籠もった後、ようやくのように話しだした。
「その……私が蜀から追放されたのは知っていると思う」
「あ、はい。そのことは、私が呉に伝えました」
「らしいな」
 己の知らぬところで、ずいぶん前に己の命運が決められているというのは業腹ではあった。
 だが、いたしかたない。それこそが、政というものなのだから。
「そこで、だ。私にはいくつか道がある。蜀に帰参を願って、漢の一武将として過ごすのもいいだろうし、魏にも誘われている。あるいは北郷一刀の下へ来ないかという誘いもある」
 白蓮は一度話を切り、明命が理解していることを確認して話を続ける。
「魏に関しては、私もそれなりに知っている。しかし、北郷という人間はいま一つわからない。まともに話すようになったのは、こちらへ赴任した後だからな」
「それで、一刀様の話を聞こうと?」
「うん、なにしろ本人はいま呉だろう。最終的には本人と話をするにしても、それまでにある程度方向性を定めておかないと失礼だからな。北郷の配下にも聞くつもりだが、呉や蜀の意見も参考にしようかとな」
 ふむふむと頷いた明命は彼女の言葉に考え込んでいたが、しばらくすると浅く腰掛け直す。
「わかりました。では、呉から見た一刀様と、個人的な印象をお話しすればよろしいでしょうか?」
「うん。頼めるかな。私を助けると思って」
「はい」
 息を大きく吸い込んで、黒髪の少女は目から感情を消して言葉を紡ぎだす。
「北郷は、呉にとって強力な同盟者です」
「ほう?」
「改めて説明することではないかもしれませんが、呉は楊州、交州、そして、荊州の三分の二を領有しています。荊州で蜀と、楊州・荊州で魏と接しております。
 蜀とは、知っての通り荊州の領有問題を抱えております。しかし、魏と接する地域は長江という自然の境界線があるため、その領有に関する問題は生じておりません。今後を見据えても起きづらいと考えられます。
 さらに、長江は侵攻を阻む壁ともなり、また、逆に交易を促進する水の道ともなります。現状の協調路線を考えますと、今後もこの二国関係は非常に重要になっていくものと思われます」
「ふむ。それはわかる」
 明命の語る呉の情勢に納得したのか、白蓮が軽く頷く。
「さて、魏の覇王の盟友であり、個人的にも強いつながりのある北郷という人物は、魏との関係を築く上では最重要と言っていいかと思います。他にも比肩する人物はおりますが、いずれも呉とは深く関わっておりません。
 しかし、北郷は現在呉へ大使として派遣されていると共に、彼の下には、呉を良く知る黄蓋……いえ、黄権さまがおられます。いまは立場を違えておりますので黄権さまが呉に有利なことばかりを進言するとは思えませんが、北郷勢が呉を理解する上で力になるであろうことは確実です」
 腕を組み、情報を呑み込むようにして考え込む白蓮。明命はじっと彼女の姿を見つめ、言葉を待っている。
「しかし、あいつの下には袁術もいなかったか?」
「はい。それも有利に運ぶ要因です。はっきり言いまして、袁術自身には、いまだに呉に対する不信はあるでしょう。
 とはいえ、それで讒言をしたとして、気づかぬ北郷とその周辺ではありますまい。恨みから行動を起こせば、却って呉に有利になることは確実です」
 そこまで言って、彼女は表情を崩す。普段通りの笑みを浮かべて、こう付け加えた。
「いまの袁術殿がそのようなことをなさるとは、私個人としては思いませんが」
「つまり……魏との関係を強固にするためには、重要な人物、ということか。たしかに身近にその国を良く知る人間がいるほうが、協力していくのに苦労はいらないだろうな。敵対すれば、これほど恐ろしいことはないだろうが……」
 その言葉に、明命は笑みを深くする。まるで、そんなことを恐れる必要があるわけがないというように。
 その顔を見て、白蓮は少し複雑な表情を浮かべた。
「うん、ありがとう、よくわかった。明命個人としての評はどうだ?」
 そう聞いた途端、明命はばんっと手を卓につき、音を立てて立ち上がった。
「一刀様は素晴らしい御方です!」
 叫ぶ明命は、ぐっと力強く手を握る。
「お優しくて、頭もよろしくて、しかもしかも、お猫様に好かれているのです! ああ、一刀様に紹介していただいたお猫様たちのもふもふ具合と言いましたら、これは、もう夢のような……」
 まくしたてる明命に呆気にとられていた白蓮だったが、止まらない言葉の羅列に、こりゃのろけだな、と小さく独りごちるのだった。

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